大学は言葉の力を信じる場所である。べつにこれは、大学ではそこに属する教員や職員が常に正しい言葉を喋り、真っ当な議論をし、真実を発信し続けている場であるという意味ではない。むしろ、自分たちが見当違いの言葉を喋り、間違いだらけの議論をしていることは分かっているが、しかし、そのなかにたまたま正しい言葉があれば、それが生き残るだろう、ということを皆が信じている場所だという意味である。そしてまた、たとえ自分の気に入らない人物が言った言葉であっても、その言葉が正しいものであったなら、その言葉は残っていくであろうということを、皆が信じている場所だ、という意味でもある。
たとえどんなに嫌な奴で、軽蔑すべき人物が言った言葉であっても、その言葉が正しい場合は、その言葉が人々の心に生き残ってしまう。そういう状況を描いたのが、文学であればたとえばシェークスピアの『ヴェニスの商人』におけるシャイロックの独白の場面や、あるいは、ホーソーンの『緋文字』のにおけるヘスター・プリンが人々の前で語る場面である。どちらも、当時の常識からすると、嫌な奴、あるいは、軽蔑されるべき者であったにもかかわらず、彼や彼女が喋る言葉は正しく人の心を打ち、その言葉が生き残る。宗教においても、たとえば救い主と言われる人物は、しばしば世間からは悪人とされる人物、或は人々から軽蔑される人物へと近づいてその言葉を聞く。悪人とされる人物、あるいは人々から軽蔑される人物の語る言葉が、しばしば正しく、その正しい言葉の方が生き残ることを知っているからだろう。たとえ極悪人の語る言葉でも、その言葉が正しければ、その言葉が、それを語った人物が滅んだのちも生き残る。それを信じている人間は、どのような相手とであっても、議論したり、語り合ったりすることを恐れることはないようだ。
ある人物が金の力や軍事力によって一時的に優位に立つことがあっても、もしその人物が正しい言葉を語ることができなければ、その人物とその言葉は最終的には滅んでゆく。逆に、たとえ嫌な奴や途方もない馬鹿な輩が言った言葉であっても、それが正しく時宜を得て語られた時には、それは否応なく生き延びてゆく。人間の言葉とはそういうものなのだということをシェイクスピアやホーソーンは描き出す。このことを十分に理解している人間は、どのような相手とも自由に議論したいと思うし、そしてまた、そのなかで正しい言葉が生き残ることに望みをかけている。
そして、人間の生きている状況が変化したとき、正しいとされる言葉もその時々で変化していく。今後、状況が根本的に変化していったとき、何が正しい言葉であるかは誰にもわからない。どのような言葉が生き残ってゆくか、誰にもわからない状況の中で、できることがあるとすれば、むしろなるべく人々に自由に言葉を喋らせて、その中でその時々の正しい言葉が生まれ、生き残る、そのような状況を維持してゆくことしかできないであろう。おそらくそれが大学という場が存在する意味である。そしてまた、大学がこれからも存続する意義があるとすれば、それは大学がそのような言論の自由を守るという意味で、言葉の力を信じる場所であり続けるからである。大学は金の力や、あるいはその時々の権力に従うことによって生き残るのではない。大学は言葉の力を信じることによって生き残るのである。