九州アメリカ文学会12月例会の発表は三人の若手によるもので、どれも面白かった。
最初の発表は前屋敷先生によるマーク・トウェインの No.44, The Mysterious Stranger についての発表。マーク・トウェインの晩年の作品には賛否両論あるけれども、少なくとも対話による思考の発展を促したと言う点においては評価できるだろうと思う。『ハックルベリー・フィンの冒険』でハックがジムを救おうと決意するシーンは、ハックの独白によって語られる。もちろんその思考の発展はそれまでの逃亡奴隷ジムとの交流に支えられて生み出されているのだけれど、ジムと対話することによってハックが思考を発展させているわけではない。それとは対照的に、No.44, The Mysterious Strangerでは、登場人物たちの対話によって、二つの対立する価値観(あるいは世界観)が表され、それらの価値観や世界観が検討吟味される。それらのどちらが正しいと言うわけではないが、どうやらトウェインは、それら二つの対立する価値観や世界観を持った人物同士が対話をしている、その対話という行為だけは確かに存在する、と言っているようだ。No.44, The Mysterious Strangerの結末の部分で、"Nothing exists but You." (405) と言っているのは意味深い。トウェインは、自分が確かに存在する、とは言わずに、対話の相手であるあなただけが確かに存在するのだ、と対話する相手に呼びかける。それは同時に、相手と交わした対話だけが、確かに存在しているのだ、という意味でもある。
松田先生による「境界的(リミナル)な存在としての少女―― Sandra Cisneros The House on Mango Street」は、Sandra Cisneros の私的な表現に満ちたThe House on Mango Streetが子供(少女)の語りによって表現されるからこそ評価が高いと考えると、これはアメリカにおける詩と政治性の問題にも関わる問題にもなる。たとえば『カラーパープル』を発表し、小説家として高く評価されているアリス・ウォーカーは、同時に現代の最も才能ある詩人の一人だと思われるけれど、彼女の詩は小説ほど高く評価されていない。それはおそらく、アリス・ウォーカーが詩作品に明確な政治性を持たせることが多く、しかもその政治性は左翼的な、あるいは同性愛的な傾向を強く持つからだろう。それは、詩的要素を多く含みながら、その含意するものが極めて曖昧で、子供の視点をとどめた未成熟なものであるがゆえに評価の高いSandra Cisneros The House on Mango Streetとは好対照をなす。
坂井先生の「新派、女形、ヒステリア―『欲望という名の電車』日本初演と杉村春子のブランチ」は、杉村春子の演技が、歌舞伎の伝統を受け継ぐ新派的演技の要素を色濃く持っているとのこと。ある意味では味付けの濃い演技をする杉村春子だが、それが最初のうちは鼻につくものの、そのうちに気にならなくなると言うのは、果たして観客が杉村の演技をそう言うものとして受け入れていったのか、それとも杉村の演技が円熟していったからなのか。どうも前者のような気がするのだが、そうすると、それは同時に日本における演劇の観客の成熟という問題とも関わってくるだろう。